大学の経営学科を卒業し、目的もなく大学を卒業して
就職活動もしないで大学を卒業してしまったんです。
やりたいことがわからなくて自分探しみたいなことをしていて、
親父がJRだったんで国鉄でも入って趣味にいきようかと思った。
で、就職をしたんですが、今で言ううつ病にみたいなものかな?
毎朝会社にいくとなると頭が痛くなったり片頭痛がして、
これはちょっとまずいなと思って半年でJRを辞めた。
それからですね、自分にあったことってなんだろうといまさらながら探して、
いろんな会社面接して訳のわからない投資会社、先物取引のような会社を面接したら
矢のように電話がかかってきて、明日からでも来てくれみたいな話になって、
どうも水っぽいんだよなって思って。
で、たまたま小さな雑貨の問屋さんの社長と意気投合して来てよということになって、
ファンシーバラエティー雑貨っていう、その雑貨屋さんの営業として入らせてもらった。
東急ハンズ、キディランド、メジャーなところでそれ以外の文房具屋さんだったりとか、
バラエティ雑貨を販売しているところに営業として入らせてもらった。
6人しかいない小さな会社だった。
社長がAB型で調子のいい男でなんか似てるんですよね。
僕はオリジナルでやりたいんだけど、やってみないかなんていわれ、
ぜひ参加させてくださいなんて、
その会社にいればなんか楽しいことができるんじゃないかと思っていたんだけれども、
面白い社長だと思っていたのになかなか冒険しなくて、
やっぱりそのメーカーが作ったものを売るだけということが、
会社のキャパで取引先の大きいところに従って振り分けを決めるっていう、
だからいくばくも物が入ってこない、
だから一生懸命営業して注文をもらっても社内には上から物が降りてこない。
「他の業者さんにはあるのに何で入ってこないの?」っておしかりを受けることが多くて、
よく課長に文句言ってました。(笑)
それと商品のサイクルが非常に短い。
ついこの前に発売になったものが2週間後にはキャラクターの価値に依存しているから、
キャラクターが新鮮なうちは売れるけど、
鮮度が落ちたら物自体の価値、ノートの価値ペンケースの価値すらなくなる。
キャラクターが新鮮だったら、その物自体の価値以上になるが、
新鮮じゃなくなったらペンケースの価値すらなくなる。
ということに非常にむなしさを感じるようになった。
もうちょっと商品価値のサイクルが長いものに取り組んでみたいなと思った。
で、数少ない雑誌だとか、
情報はねインターネットはないですから、
あのころはマガジンハウスだとかそんなものを見ながら
どこかいつの間にか家具作りみたいなものをかっこいいなとと感じるようになった。
嫌だったんでしょうね、
雑雑とした環境で、しかもめまぐるしく変わる商品サイクルに疲れちゃったんでしょうね。
そうじゃない分野にあこがれたわけですよ。
たまたまその会社の先輩の友達が木工をやっている人がいたんですね。
その人を紹介してもらって、その木工所を出入りするうちに家具をやってみたいなと思うようになって。
会社を辞めて失業保険をもらいながら手伝いにいった。
作家はいるんだけど、仕事がないんですよ。
仕事がないんだけど、ハッピーなんですよ。
自分の将来を左右する覚悟でここにきているのに、サイクリングしようとか言われる。
山菜取りにいこうとか。
なおかつ近所に住んでいる画家とかみんな仲良くて遊んでるんですよ。
で、奥様が縫製工場の娘で奥さんは縫製工場に勤めているんですね。
そうこうしてる間に人の紹介や雑誌をみていろんなところに訪ね歩いて、
印象的だったのは立川でやっていらっしゃる方できちっとした理念をもって作っているんですけど、
こちらも見たところ決して忙しそうな感じじゃなくて。
聞いたらおくさんは歯医者なんですって。
あれ? ここでこういう現実に出くわしたかな?って。笑。
僕が昔お付き合いのあった方に営業してきますよっていって、仕事を取りにいくわけですよ。
なんかやりたくないなとか言われつつ、やりましょうよってはっぱかけて。
じゃあ、島田くんどういうのつくるかお客さんと打ち合わせしてきてよなんて言われて、
図面なんか描いたことないじゃないですか、
でも見よう見まねでこんなんですみたいなってことをやり始めたのがいまの原点ですね。
そのころ既にイデーとかサザビーが家具をやりはじてました。
それから、設計事務所を回り始めて当時アンティークチックなものが流行って、
こんなの作れないみたいな需要があって。
そんな形で仕事をはじめて、オーダーメイドってお客さんありきの仕事になっちゃうんで、
オリジナルみたいなことで受け始めて一番初めにつくった店なんですかね?恵比寿です。
僕らがスタートした時代っていうのはやっぱりクラシックが主流だった。
クラシックというよりもイギリスアンティークだよね。
僕は一番初めに創業したのは恵比寿で、人を介してアクメの社長と出会うことになるんですけど、
さっきも話しましたけど、横山家具に憧れて軍の払い下げの家具を集めてね、
それが彼なりにもっとセグメントしたセレクションで、でも専業はロケバスで稼いでいるという、
東北沢で場所を探していた時に、安くて雰囲気あるけど
ちょっとうちの家具ではよく見えないなってガレージがあって、
そこを彼に紹介したらそこを借りたんですね。
オーパっていう恵比寿の防衛庁のところ。
そのあと、旧山手通りに彼が店を出して、
彼が昔ブライアンカーチスってミッキーカーチスさんがお店をやっていた木造のね。
あの後に店を借りたんです。
なんか楽しそうだなと、彼の背中を追うようなそんな感じになった。
彼が店を出したときは恵比寿が家賃が25万くらいだったんですね。
ブライアンカーチスの店を借りて確か180万家賃が。
「いや別に俺一か月でもいいんだよ。あそこを借りれたら」って話であれよあれよって話で、
それが建物に併設する駐車場を大家さんが息子の駐車場に使うといって借りれなかったらしく、
彼、結構気にする男で車を止めて荷物の積み下ろしをやっていると
一車線つぶれるじゃないですか。
で、大家さんと交渉していたら大家さんに探せばあるじゃんって言われて、
かちんときて、その物件そのもの退去することに決めて、
その後新しい物件をたまたま探していたらA社のところが出てて。
借りてた家賃が245万でしたよ。その当時は地下一階と3階まで借りてたよね。
手通りに出た後に見ててなんか楽しそうだなって、
バブルもはじけて91年頃設計事務所がどこも仕事もってない時期で
消費税の値上がりだなんだって、オーダーをやめてホームユースの家具をはじめるようになった。
西五反田の印刷工場の跡地で、今やればおしゃれな感じになったけど、
その当時はお金もないし、お金ないけどオリジナルないいものやりたいとタイルや左官屋さんにたのんで、
電気は自分たちでやってそこでやり始めて、
その当時だんだん目黒通りがアンティークからモダンにシフトしはじめて、
だからアクメさんが最初売れていたクラシックテイストがカントリーチックな家具が、
それが山手通りに移った後半くらいから、ミッドセンチュリー系のすっきりした家具が流行りだし、
うちの家具がだんだん売れなくなり始めて、だんだんカントリーを始めて。
時代はモダンかよーって。
ターゲットはそれまで女性だったのが、
目黒通りの印象は男の人、またはボーイッシュな女性が好む家具の印象があった。
山手通りに移った時にオーパからアクメになった。
我々も目黒通りが盛り上がるにしたがって、ちょっとパワーを失っていきました。
時代はミッドセンチュリーなんだなって。
自分ところがあんまりにも暇だから彼の店を見に行ったりね。
5月くらいの土曜日だったのかな?
わんさか人がいるんですよ。うちなんか一組くらいしかお客がいないのに。
1階から3階までわんさか人がいて完全に自分が外れているのがよくわかった。
それで、店を探して新天地を目指して、ただその時は目黒通りということにはこだわっていなかった。
ある程度の規模でやりたいなと。
目黒通りっていいますけど、盛り上がった時期ってその周辺にもあった、アーカイブさんとか。
須田さんたちがやってきたことってすごくストイックですよね。
ミッドセンチュリーは何か、しかも非常に若手系じゃないですか。
デザイン系みたいな。
それまでは我々はクラフトであったり、クラシックであったりというフォークロアなものだったけれど、
完全にニューエイジたちがリニューアルをスタートしていましたね。
F:96~8年あたりにパインブームがあって島田さんのところすごかったですよね?
すごい流行ったんですよ。うちも影響があって、うちのソファーとペニーさんのテーブルとかチェアとか。
ピンクハウスが流行ったころですよね?島田さんはそれで結構パインで勢いがよかったですもんね。
だからその固定観念が強くなりすぎて、僕らは変わろう変わろうとしたんですけど、
誰も変わる姿を見てくれなかったんですよ。
変わらない姿しか見てくれない。しかもどんどん細っていく。
だから、場所を変えいて大きく進歩しないとたぶんこのままだと過去の店になっちゃうと思いましたね。
それで今のところに店をだした。当時は学芸大のあたりに人がいて、こっちは人が来やしなかった。
アクメの創業者のYさんっていうのは、商売人でもなんでもない。
やりたいことを追及してもっとダイナミックなことをやりたいってことだけで突き進んで、
身近で僕は一番勇気づけられた。
彼に出会わなかったらもっと地味にやっていましたね。
その方が人生終わってみたら正解だったかもしれないですけどね。
あー、あの時あんなことしてなければって。
人生何があるかわからないですけどね。
憧れて背中を追った結果として、彼は一抜けたをしてしまった、会社を売ってしまったわけですよね。
それは僕にとってはすごい損失感ですね。
ちなみに僕はMISCのあれでも話しましたけど、
感覚的に前に進んでいくアクメY氏とロイズ久保氏と背中を押してもらいながら、
もう20年ぐらいの付き合いになりますよね。
久保さんは勉強熱心で、真面目な経営者なんで。いろんなことを教えてもらいましたね。
この二人と出会えてから今までやってこれたのかなと。
そんなこんなで目黒通りのはずれに店をだしたんですけどね。
:城南地区って、外車屋もそうですけど、そういうのがあったから目黒通りに目をつけられていたんでしょうね。
K:元々は城南地区を拠点として家賃が安いからって外車屋のデーラーが目をつけて、
それがどんどん高くなって、それでいなくなって安くなったんでどんどん家具屋さんになったいう
ストーリーにマーケティング的にはなってるみたいですよ。
:こっちにねボリュームがこの辺に移ってきたのはもともとの自然の流れとは違ってきた気がする。
:もう一つはクラスカですよね。
この間もイギリスのデザイナーに泊まりたい泊まりたいっていうから
どこだっていったら、クラスカだっていう、こっちは鼻で笑ってしまった。
クラスカはできてどのくらい?ちょうど10年ぐらいですか。
K:もっと色あせるかなとおもったけど、逆に今が旬ですもんね。
:僕の目黒通りにたどり着くまではそんな感じかな。